カリスマは周りが決めるのか自分で「なる」と決めるのか?
カリスマは自分で名乗るものじゃない!
どうも戯言(ざれごと)ヤマトです。
これは著書「カリスマ講師Theバイブル」のサンプルで出て来た1ページなんだけど、言いたいことは良くわかります。
自作自演でも「カリスマになってやる!」それくらいの気持ちを持たないと「カリスマ」にはなれない。時々自然とあっという間にカリスマになっていくようなツワモノもいますけど、大抵の場合は本人が情熱をもってその道の「カリスマ」になって行く。
サンプルの言いたいことは重々わかるのだけど、カリスマというのは本人がなろうと思うのは意識レベルの話で「カリスマになる」と強く思えば行動のベクトルは希望に近づいていく。だからこそ「カリスマになる」と強く願うことは必要なことではあるのだけど、やはりカリスマは周囲が決めることであって周りに「俺はカリスマだ!」なんて言って歩くような自称カリスマは周囲には「痛い奴」と映る事でしょう。
自分と周りの全体の「感情」を考慮していくと本当の「カリスマ」になる為の行動とは逆行していると言える。
カリスマになりたい、有名になりたい、凄い人になって周りに認められたい、そういう思いというのはつまるところ、「承認欲求」と「自己顕示欲」のカタマリだと言えるだろう。
もしくは、コンプレックスからくる「負の感情」や「陰(いん)」の要素を含む力が働いたことによって引き起こされているか、マイナス方向の潜在意識からくるものであった場合、方向性としてはそのまま進んで行くのであれば、かなり危険な要素を含んでいる。
承認欲求や自己顕示欲を満たすこと、他人に自分がカリスマであること(すごいということ)を認めさせることや認めてもらうことに凄く執着している人々も多いけど、人生を生きて行く上で自分を周囲に認めさせることはさして重要なことではないという真実を理解したほうが生きやすくなるし物事は良い方向に自然と転がっていく。
「承認欲求」や「自己顕示欲」を満たしたいという思いは欲求レベルでいえば割と高い位置にあるので、ここに到達できていない人たちもたくさんいる中で、意識レベルはかなり高い部類に入る人たちではあるのだけれど、わざわざ認めさせようとしなくとも、あなたの素晴らしさは周囲は良く見ているし感じ取っている。
スゴイ人間であるのなら勝手に評価される、しかしその評価もさして自分の人生において実は全く重要なことではなかったりもする。
それは自分自身の人生は自分のものであって、他人の人生を生きているわけではないからだ。
カリスマは自分で「なる」と決めてそこを目指すにしても、それを決定づけるのは周りであり自然に決まる。
見せ方ひとつで良くも悪くもどちらにでもすぐ転ぶ
他人の評価はちょっとしたことで、いとも簡単に覆(くつがえ)るものだ。
昨日見方だった人間が今日は敵になっている、その逆もまたしかり、こういった評価に一喜一憂うしてしまうのもまた無駄の多い行動でもある。
ましてや力技で評価させようというのが、不自然極まりない行動と言える。
何事も流れというのが必ずあり、対極的にその流れを無理やり捻じ曲げると別の場所で必ずと言って良い程ひずみが生まれるものだ。
そのひずみがすぐに表にあらわになる場合もあればそうでない場合もあるが、どこかしらでそのひずみを清算しなければいけないタイミングは来てしまう。
これは必ず起こる!
そういった変えることのできない大きな流れを小手先だけでねじ曲げようとすれば反動はより大きなものになる。
必要以上に執着すれば必ず大きなひずみが生まれてしまい清算しなければいけなくもなる。
幸せの価値は自分で決める
自己啓発本などにはこういった表現が良く書かれているが、「承認欲求」や「自己顕示欲」に執着することでひずみを生んでしまったり、たとえそれが満たされたとしてもそのあとで人生においてさほど重要でないと知ったときにひずみの清算をしなければいけなくなってしまった場合の苦悩ほどむなしい物はない。
陰と陽の心は常に紙一重
一人でも多くの方に自然体でも幸せと感じれる暖かい心を育んで欲しい。
そう強く願っています。
少し真面目に書きすぎたので今回はこの辺で。